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日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す 講談社選書メチエ230

金谷武洋(著者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 講談社
発売年月日 2002/01/10
JAN 9784062582308

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日本語に主語はいらない

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商品レビュー

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11件のお客様レビュー

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2023/01/06

國分功一郎さんの「中動態」の議論に触発されて、これは日本語的にはどうなんだろう?と考えたときに、日本語ではしばしば主語が省略されるということに興味がむかった。で、なんかないかなと思って、Amazon検索したら、ずばり「日本語に主語はいらない」という本書がヒットし、即、ポチって購入...

國分功一郎さんの「中動態」の議論に触発されて、これは日本語的にはどうなんだろう?と考えたときに、日本語ではしばしば主語が省略されるということに興味がむかった。で、なんかないかなと思って、Amazon検索したら、ずばり「日本語に主語はいらない」という本書がヒットし、即、ポチって購入。 さて、内容については、まさにこれが知りたかったということにドンピシャ。 日本においては、「主語」は「省略」されているのではなく、もともと文法的には必要ないということ。 主語の「ある」文章はたくさんあるのだけど、それは主語なしで一つの文章として文法的には成立していて、それへの追加情報として、主語的なものが付加される考えべきという主旨。 では、どうして、もともと「ない」はずの主語が「ある」ことになったかというと、明治以降、英文法との比較において、日本語文法が体系化されたということ。つまり、脱亜入欧ということで、印欧語同様、日本語もちゃんと主語があって、目的語がある文法であるという方向で整理したということらしい。 この辺の議論を、難しい理論ではなくって、日常的なありふれた表現について、英語とフランス語、ときどきドイツ語との比較をしながら、検討していて、とてもわかりやすいし、説得力がある。 これは、カナダのケベックというフランス語と英語が使われる場所で、日本語教師をしている著者ならではの明快さなんだろうと思う。 外国人に、日本語をいわゆる日本語文法にそって教えると、変な日本語をしゃべる人になってしまうという現実、そしてどういう教え方をすると「自然な」日本語を習得することができるかという実践に根ざした議論だと思う。 さて、「日本語に主語はいらない」を証明するだけでなく、この本はその先まで進んで、自動詞と他動詞の関係を論じていく。途中、専門的になって、ちょっと難しくなるのだが、我慢して読んでいくと、それは、「自然」と「人為」の差の問題であることが浮かび上がってくる。 そして、日本人は、人為的になにかをするというより、自然にそうなる、ということを大切にしてきた人々だったのだというところにいきつく。 え〜、これって中動態の話しではないか! なんて、思っていたら、間髪を入れず、印欧語の中動態の議論についても、さらっと言及される!!! しかも、この「自動詞」と「他動詞」の関係については、江戸時代、あるいはさらに遡って平安時代の歌書に、その違いについての理論的な説明がなされているという! どうして、日本人は、自分の国の言葉の文法に関する先人の研究を忘れてしまったのか? というと、やっぱ、脱亜入欧なんだろうね〜。 人間の思考が言語によってなされることを考えれば、自分たちの使っていることばを、英文法に無理やりに当てはめたようなものでなく、日本語の文法として再構築するというということが、日本が英語セントリック(エゴセントリックのもじり)な世界からの自立するために必要なことなのかもしれない。 まさに、精神的な隷属からの解放だな。 そして、その自立や解放は、エゴセントリックなものではなくて、日本語自体の構造や内在的な論理として、自然とそうなる、というようなものになるはず。

Posted by ブクログ

2020/09/09

どういうものを「論理的な言葉」とするのかという定義自体が、確かに英仏の言葉にひきづられているものだとハッとする。 Iがひとつではないと言った日本語ならではの細やかさをもっと楽しもうと思う

Posted by ブクログ

2019/06/10

「日本語に主語、入らない」じゃないですょ・・・^^;。 かねて、「イギリス語の“I”一種類に対して、日本語には“僕”“わたし”“オレ”“それがし”など無数の言い方がある。日本語って、なんて細やかなんだべ!!」と思っていたんだけど、どうもこれ、そうカンタンにはいかない問題だったら...

「日本語に主語、入らない」じゃないですょ・・・^^;。 かねて、「イギリス語の“I”一種類に対して、日本語には“僕”“わたし”“オレ”“それがし”など無数の言い方がある。日本語って、なんて細やかなんだべ!!」と思っていたんだけど、どうもこれ、そうカンタンにはいかない問題だったらしい。 そもそも“I”と“わたし”では、文法的な機能がまるで違うものである。 (どう違うかは、面白いから本書をお読みください^^;) 日本語文法に「主語」という概念を導入する必要はまったくないし、イギリス語の法則から日本語を考えても意味はない。それは、明治維新以来のイギリス語偏重主義の弊害であり、現在の学校文法は間違いである。 と著者はいう。 明治の頃、初代文部大臣の森有礼という人は「日本語やめてイギリス語を国語にしちまえ」という暴論を吐いた。前島密は「かな漢字をやめてローマ字を使うようにしちまえ」と言ったそうだ。 (言葉を捨て去ることは、そのまま文化、ひいては民族アイデンティティーの放棄である) で、大槻文彦という人がその後の「日本語文法100年の誤謬」を決定づけた。・・・ また明治かよ、ですな。 そんな中で、イギリス語やフランス語の話者に日本語を教えて来た著者(モントリオール大学の言語学教授)のアンチテーゼには非常に説得力がある。 後半の自動詞と他動詞の問題あたりになると、かなり難しくて一読では噛みきれなかったんだけど、「は」「が」論争の不毛さも含めて、いかに日本語文法は誤った路地裏にさまよい込んでいた(いる)のか、ということがよくわかる本である。 あとがきにも、日本語教育に携わる方はぜひご一読を、と書いてあるが、日本語のためにオレからもぜひ、とお薦めしたい内容である。

Posted by ブクログ

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