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ルネッサンスの光と闇
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ルネッサンスの光と闇
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3.8
9件のお客様レビュー
サヴォナローラがカトリシズムの腐敗を厳しく糾弾した15世紀末、フィレンツェの街は終末思想に覆われていた。メディチ家は人文学者たちを集め、マルシリオ・フィチーノを中心に開かれたプラトン・アカデミーによって新しい世界像をつくりあげようとしていた。一見しただけでは何が描かれているのかわ...
サヴォナローラがカトリシズムの腐敗を厳しく糾弾した15世紀末、フィレンツェの街は終末思想に覆われていた。メディチ家は人文学者たちを集め、マルシリオ・フィチーノを中心に開かれたプラトン・アカデミーによって新しい世界像をつくりあげようとしていた。一見しただけでは何が描かれているのかわからない、謎と寓意に満ちたルネサンス絵画の世界を紐解く。 手持ち本のなかでは、若桑みどり『マニエリスム芸術論』に近い。本書にはマニエリスムという言葉はでてこないが、中心となるのは寓意画の図像解釈学であり、底本にしているのもパノフスキーとヴィントだから取り上げられる作品も共通している。 オルヴィエート大聖堂のシニョレッリの連作を教材に、15世紀末のフィレンツェ市民が共有していた終末思想を解説する第1部。シニョレッリ『パンの饗宴』、ボッティチェリ 『春』『ヴィーナスの誕生』、ティツィアーノ『聖愛と俗愛』を用いて、ネオ・プラトニズムとルネサンス絵画の関係を語る第2〜4部。ベルリーニ『神々の祝祭』の制作背景から、ネオ・プラトニズム的な愛を小部屋に表現しようとしたアルフォンソ・デステの構想を探る第5部、という構成になっている。 読みどころはやはり、第3部におけるボッティチェリ『春』の読み解き。ネオ・プラトニズム的な愛の観念が、古代から続く生と死のサイクルと結びつくこと=〈春〉。「宇宙的オクターヴ」の章は難解な内容のわりにあっさり終わってしまったが、本書は全体的に魔術的な方面には淡白な傾向がある。花の神フローラのイコノロジーが〈天上の愛と地上の愛〉に一旦は結びつき、やがて娼婦のイメージへ零落していく過程も面白かった。 今や当たり前のものとなっているネオ・プラトニズムの魔術的な世界観を期待すると肩透かしを食らうが、西洋絵画における寓意という、我々にはいつまでたっても縁遠く感じられるモチーフを知る足がかりには最適な一冊。60年代後半の連載をまとめたものらしいので、ピコやフィチーノの思想を紹介したものとしては『夢の宇宙誌』チルドレンというところだろうか。澁澤に比べたら、晦渋なところがなく断然読みやすい。若桑先生の『イメージを読む』が楽しかったら次はこれ、という薦め方をしたい。
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高階秀爾 「 ルネッサンスの光と闇 」 ルネッサンス期フィレンツェ派の芸術表現と精神的風土の関係性から ルネッサンスの意義を論じた本だと思う ルネッサンスの意義は ギリシア思想の復興により、教会の権威を弱め、キリスト信仰を 本来あるべき姿に是正したこと ルネッサンス期の精神...
高階秀爾 「 ルネッサンスの光と闇 」 ルネッサンス期フィレンツェ派の芸術表現と精神的風土の関係性から ルネッサンスの意義を論じた本だと思う ルネッサンスの意義は ギリシア思想の復興により、教会の権威を弱め、キリスト信仰を 本来あるべき姿に是正したこと ルネッサンス期の精神的風土 *中世カトリックの教会主義への疑問 *個人の自由と平等の目覚め=ギリシア思想 *終末思想、神の罰への怖れ ルネッサンス期の芸術表現 *教会の教義は 神の言葉か、悪魔の言葉か *美とは何か、愛とは何か、神とは何か、の芸術的追求 *愛とは、人間と神との関係の中にあり、美(=神から発する神的な性質)を受け、快楽の喜びを通して 神の世界に返すべきもの シニョレルリ 「世界の終わり」の地獄絵巻〜「偽キリスト」 *世界の終わりのプログラムの最初に「偽キリスト」を配置 *偽キリスト=神の言葉でなく、悪魔の言葉を話している=サヴォナローラその人 ボッティチェルリ「神秘の降誕」 *テーマ=終末観=悪魔の一時的な勝利と神の最終的な栄光 シニョレルリ「パンの饗宴」 *ギリシャ神話のパンの神(半獣神)=メディチ家の守護神 ボッティチェルリ「春」 *三美神は (左から)愛、貞節、美→貞節が後ろ向き、愛と貞操が対立、美がヴィーナスの近くにいる=新しい総合 *キューピッドの愛の矢は 愛を知らない貞節に向けられている *愛を知らない クロリスは 西風(春。愛の化身)と出会い、愛の女神フローラとなった
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国語の教科書に採用されていた文章を見て、強く惹かれた人物だった。 美術というもの、とりわけ、絵画というものはただ眺めるだけで、そのタッチや色、空間の切り取り方や面の組み合わせ、そういうところでしか感じることがなかった。 そこに何が描かれているのか、それはひとえに描いた人間のみた世...
国語の教科書に採用されていた文章を見て、強く惹かれた人物だった。 美術というもの、とりわけ、絵画というものはただ眺めるだけで、そのタッチや色、空間の切り取り方や面の組み合わせ、そういうところでしか感じることがなかった。 そこに何が描かれているのか、それはひとえに描いた人間のみた世界だ。それ以上もそれ以下もない。描かれたものが何を意味して何を表しているのか、そんなことをちまちま考えて絵を見ているとはとてもじゃないけど思えない。それに、あるものが描かれているからそれがすなわちある抽象概念を表すというのが、極めて押しつけがましくて、なんだか好きになれなかったのだ。 しかし、このひとの場合、そんな風に絵を考えていない。解釈とはひとつの物語であることを十分に知っているひとだと思う。 もしその解釈というものが、どこか胡散臭いものであるなら、それは胡散臭いものに支えられているからに他ならない。このひとの絵に対するまなざしは、なぜ、この絵はその時描かれなければならなかったのか、この一点につきると思う。 キリストの降誕や受難、復活といったモチーフはもうずっと言われていることだし、様々な人間がそれに挑んできた。それなのに、ひとつして同じ作品はない。いったいこれはなんだ。このように考えていくと、絵画を描いた人間が身を置く世界というものが見えてくる。 したがって、このひとの絵に対するまなざしは、厳密なイコノロジーではない。そういう流れの中に立って、図像解釈学的にちょっと透かして絵をみているのだ。どこか物語のような類推と飛躍をもちつつ、でも歴史家という人文科学者としての絶えない関心の中で揺れ動いている文章が、小難しい印象を与えないんだと思う。 どういうわけか、イタリアのフィレンツェという一都市のたった数十年間に、それまでの絵画とはまったく趣きの異なる絵画がぽっと現れた。ルネサンスである。では、なぜこの時、この都市でなければならなかったのか、そしてそのような都市でなぜこうした作品群が生まれることになったのか。いったい、そこに置かれた人間がなぜ後に傑作と呼ばれる作品を生んだのか。そういったものをひも解いていく。そのためには、絵のどんな些細な描き方やモチーフも見逃せない。作品はどこをとっても、描いた人間の精神の現われだから。 そこには、画家の批判的な観察と描くことに対しての飽くなき探求、そういった脈々と続く精神のバトンが繰り広げられている。ルネサンスという時代が特異なように見えるが、決してそんなことはなく、ひとつの流れの中、完成されたものだと知る。人間性の復活とは言い切れない、そんな中で画家たちは描いていた。光ある所に闇もある。どちらか片方だけでは成り立たない。世界は、歴史はそんな風にできている。それが当たり前なのである。そんな風に考えるから、当たり前を知るから、その人間の独自性と精神のバトンのコントラストが見えてくる。ボッティチェリの卓越性さはこうして感じられてくる。 なんとことばと似ているのか。そう思わずにはいられない。しかし絵画の面白いところは、その絵が眼前にみせるその印象である。ただ在るだけで、絵はひとに印象を与えるのだ。絵画だけではない、あらゆる芸術とは、働きかける感官は異なれど、そういうものなのかもしれない。
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