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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 筑摩書房/ |
発売年月日 | 1995/12/09 |
JAN | 9784480082411 |
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実存からの冒険
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実存からの冒険
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商品レビュー
4.1
9件のお客様レビュー
数十年前、「ヘーゲル 大人のなりかた」を読んでえらく感動したことを覚えている。本の断捨離をしようと思って本棚を整理していたらこの本が出てきた。在野の哲学者、西研の処女作であるこの本には「哲学する」とはどういうことかという彼の原点がある。「ヘーゲル〜」のような緻密さはないが、とにか...
数十年前、「ヘーゲル 大人のなりかた」を読んでえらく感動したことを覚えている。本の断捨離をしようと思って本棚を整理していたらこの本が出てきた。在野の哲学者、西研の処女作であるこの本には「哲学する」とはどういうことかという彼の原点がある。「ヘーゲル〜」のような緻密さはないが、とにかく考えることへの情熱に満ち満ちている。とりわけ第1章のニーチェ論が素晴らしい。若い時に現象学をつまみ食いして訳が分からなかったけど、こんな身近なものだったのかと、まさに目から鱗。埃だらけで積み上がっている岩波文庫の哲学書が捨てられなくなってしまった。
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人はみんな、各々の人生を生きている。 例えば家族とか、学校とか、会社とか、そういった社会に所属しながら生きている。 だけど、人は孤独だ。 何故なら、私は社会の一員だけれど、社会は私ではないからだ。 例えば、サラリーマンは会社で仕事を懸命に頑張っていたり、学生も、そこそこ勉強を頑張ってはいるけれど、仕事や勉強を頑張る事が自分の人生の目的だと思っている人は多くなかったりする。 社会から脱落しないために頑張ってはいるものの、私の人生はこれでいいのかなという不安は、行く場もなく、私達は寄る辺なさを感じながら生きている。 著者は、この行き場を無くした私達の想いに、「形」を与える1つの考え方として、ニーチェとハイデガーを通して「実存主義」を解説してくれている。 ニーチェは、当時「真理」として考えられてきた神や社会主義の理念に疑問を持った。何故かと言うと、キリスト教信者にとっての真理は神であり、社会主義者にとっての真理はマルクスだからだ。つまり、当事者によって「真理」というものは異なるからだ。 そこでニーチェは、生物学をヒントに、生命体の根源には、(自己保存及び成長をめざす根源的欲求)があると考え、それを「力への意志」と命名した。 この「力への意志」という概念から「真理」というものを捉え直してみると、立場による「真理」の違いの理由がわかる。 つまり、「真理」というものは、予め存在しているわけではなく、当事者にとっての「力への意志」に沿うものが、神やマルクスを「真理」であると解釈しているだけなのだと。 だから、ニーチェは「神は死んだ(万人に共通する普遍的な真理は存在しない)」と言い、だからこそ、「超人」になれと言った。 ここで言う「超人」とは、「力への意思」を体現する人間の在り方のことである。 人間には、成長したいと思う根源的欲求がある。好みが人によって異なるように、「力への意思」もまた人によって異なる。 今の自分にとって有意義な、納得できる生の可能性を模索し、切り開いていくこと。 そういった努力が人間に生きる力を与えてくれるのだ。 と、ニーチェは私たちを勇気づけてくれている。 「生」から生き方を考えたニーチェに対して、「死」から生き方を考えたのがハイデガーだ。 ハイデガーは、人間の在り方について、「本来性」(個人的な重要性)と「非本来性」(社会的、常識的な重要性)の2つに区別して、「本来性」を自覚した生き方が大切だと説く。 私達は、必ず「社会」と何らかの関わりを持ちながら存在していて、「常識」を共通認識として了解している。 だからこそ、勉強とか、仕事とかに対する「常識」をある程度受け入れて、生きている。これが、「非本来性」。 これに対して、「本来性」とは、今の自分にとって重要かどうかを自覚した生き方のことだ。 「死」という「私」以外には代替できず、逃避不可能な事実を前にした時、「私」は、今の自分にとって重要かどうかを考え、決断することができるのだとハイデガーは考えた。 ここに来てついに、想いに形を与えることができる。 それはつまり、「今自分に何ができるのか」「自分としては何を望むか」ということを決断すること。自己決定としての自己了解が、ニーチェとハイデガーから学べる生き方だと言うこと。
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2017.6.27 うーん。私が考えたいことはきっと、竹田さんのような大きな話じゃなくて、こういうもっと実存の問題なんなのだろうなぁと思う。実存の問題を、認識論は実存から始まるという意味で考えるか、個々人が自分なりのよき人生を生きるためという意味で考えるか。 自分の欲望を了解...
2017.6.27 うーん。私が考えたいことはきっと、竹田さんのような大きな話じゃなくて、こういうもっと実存の問題なんなのだろうなぁと思う。実存の問題を、認識論は実存から始まるという意味で考えるか、個々人が自分なりのよき人生を生きるためという意味で考えるか。 自分の欲望を了解する。そうねぇ。でも、知るだけで、足りるのだろうか。納得なんて、中々難しい。むしろそれは選ぶことだろう、自己決定の方が大切だろう。納得とは考えて考えて煮詰まった結果、何を切り捨て何を残すかを決めることなのかもしれない。決めて、そういう自分を作っていく。何も決められない、何も捨てられない人間は、ずっと自分が何者か、もしくは一つ一つの選択の際に、どの基準で選ぶべきかを悩む。 自分というものを知る、作っていく。しかし自分があまりりも固くなれば、それは他者との相互了解の妨げになる。いや、おそらく私を阻害している、私が私なりの基準を作り上げることに対して忌避感情を持っていることの最大の要因は他者との関係における価値観と価値観の違いの問題である。固い人間は、関係に支障をもたらす、だから固くなりたくないのだろう。しかし固くない、形がないということは結局自分が何者かよく分からなくなるということである。それは与えられた基準に対して、いいなりになることを意味する。 私の他者に対するこの感情をなんとかしなければならない。最近は恐れだけでなく、怒りも生まれてきている。他者関係と、自己関係。うーん。
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