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世界の手触り フィールド哲学入門

佐藤知久(編者), 比嘉夏子(編者), 梶丸岳(編者)

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定価 ¥2,860

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 ナカニシヤ出版
発売年月日 2015/04/01
JAN 9784779509100

世界の手触り フィールド哲学入門

¥1,980

商品レビュー

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2023/12/01

以下引用 おのれ自身の端緒が更新されていく経験、自分が当たり前だと思っていてとくに意識していなかった、、、、初期設定やフォーマットに気付かされることこそが哲学である 自分にとって当たり前だと思って意識していなかった初期設定に気付かされるという経験が今ほど必要とされているとき...

以下引用 おのれ自身の端緒が更新されていく経験、自分が当たり前だと思っていてとくに意識していなかった、、、、初期設定やフォーマットに気付かされることこそが哲学である 自分にとって当たり前だと思って意識していなかった初期設定に気付かされるという経験が今ほど必要とされているときはないと私は思う。近代という大きなプログラムの限界がいたるところに噴出している現在、近代のさまざまな初期設定に気付くことこそ、私たちが陥っている穴に気付き、そこから出ることのスタート地点だからだ 日常的な生活を営みながら、哲学することはなかなか難しい。しかしすべてを投げ捨てて、どのように考えるかという方法からはじめ、かつ孤独ではないような哲学の方法が存在するようには思われる。それがフィールドで考える哲学としてのフィールド哲学だ。 私にとって哲学的な場所とは、私が私であることを堂々と一時中断できるような場所だということ。またそのような状態にいる私が、思考を触発するモノや人に接触しているような場所 匿名の誰かとして私的領域にひきこもるのではなく、人々のあいだにいるとき。こうしたとき私は、私と言うアイデンティティを堂々と宙づりにし、自分であることを一時停止することが正当化されてる。そのような場所において私は哲学的なモードに入りやすいようなのだ。 自分自身を構成する環境へのなじみから、一時的な切り離されるということでもある 日常的な行動の基盤には、環境と身体、身体と身体とが触れ合うなかで形成された、なじみによる行動の半自動化が存在している。 私たちは自由な意志をもった自律的な個人などではまったくない。それは周囲の自然環境、文化的環境、社会的環境のすべてをふくめた環境との相互行為のなかで現れるひとつの現象である このような生態学的回路を一時的に、しかし一定の時間の幅をもって部分的であれ、切断すること。それこそ私が哲学の方法ならざる方法、フィールド哲学の入り口として提案するものである 私が私であることからずれる場所、私という意識が一時的に薄れ、雄大な景色や動物たちなど、他なるものの存在感や他者のふるまいにこの身を委ねてしまう場、 世界は新しい手触りとともに立ち現れる。それは必ずしもつらく悲しい経験ではない。私たちはこれまで学んできたこととは別の生き方を学び直すからだ。もう一度、モノがモノとして見えてくる、他者の顔は不可思議な肉へと変貌する。日常のなかにこの小さな切断面や裂け目こそ、哲学的思考への入り口である。この裂け目のなかで時間をすごし、そこで起きていることを、加工されていない経験として徹底的にとらえようとするとき、フィールドワークと一体化した哲学がはじまるのだ 異なる場所に移動することで、みずからのアイデンティティが宙づりになり、加工されていない経験が立ち現れてくることにある。その経験に新たな手触りを感じることが、哲学的思考を半自動的に起動させるのだ。行けばわかるのではなく、行けば考えるのである。 私たちが強固に自己を形成したとしても、世界と身体との常なる交渉は、私たちの意識の下にある基底的な気分をつくりだしつづけている。したがって、異なる環境、他者、自然、世界との異なる関係構造のなかに置かれたとき、私たちは別用に触発されていく。私たちの食の好みも、話し方も、身振りや歩き方も変わるのだ 人はなぜある生活世界を出て、別の生活世界に住み込もうとするのだとうか。 そこで一旦括弧に入れられてるものに制度がある。制度とは、わたし以外の他者によってすでに決められたことである フィールドに行くことにおいて、意志されているのは、 身をまかせること。 身体が変容するということは、現に実現されているこn身体のあり方とは別様でありうる可能性が身体自身に内在していることw意味する。身体にはその潜在態の次元があり、それを含めたサクソウタイこそが身 地域は、単に病院の外のことではなく、出遭いの場であり、あわい、相互行為空間 所与として病院化する力と制度に抗してその都度作り出される歓待の場である。そこでこそ人は、精神障害者ではなく、苦しみや問題を抱えながら生きている名前をもった誰かになる 精神疾患の名のものとに医療化し、社会的に危険な存在として隔離するのではなく、再び誰かとて生きることができるようなあわいを構築することが課題 ぼくらには自分がそれと気づていないままに従っている、あるいはそれにのっとっている人生の初期設定、フォーマットみたいなものがある。メルロポンティが言っているのは、哲学するというのは、自分が当たり前だと思っていてとくに意識していなかった、自分がのっとっている初期設定やフォーマットに気付かされること。その気付きこそ哲学なんだ

Posted by ブクログ

2019/02/08
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※このレビューにはネタバレを含みます

文化人類学者・菅原和孝の定年退職記念の刊行物。「フィールド哲学」の提唱者らしいが、素人には文化人類学のフィールドワークと区別がつかない。また、お弟子さん達の文章が続くんだけど、菅原氏のSF 作品があるらしく、ソレが論じられてる。でも…未読の身にはちと辛い。また、幾ら文化人類学の対象にサブカルとかもアリとは言え、退官祝という性質上、緊縛ってのはいかがなものか(笑) 池澤夏樹との対談、面白くなってきたところで紙幅の都合…となり、肩透かし。 ただ、自分の体験を、小説家は「自分にしか価値のないもの」とみなすことはあっても普遍性を持たせることがないのに対して、学者は「同じ状況下ならこういうものだ」と一事例に還元するってとこ、成程ねと思った。 あと、佐野文哉氏の文章は、どこかでちゃんと読みたいと思ってた「シムコムは日本語であって手話じゃない」を思い出させてくれた。

Posted by ブクログ

2015/07/22

人類学者でありフィールド哲学を提唱した菅原和孝氏とその門下生らによる対談・論文集。 哲学的要素に裏打ちされた記述や個人的な告白があることによって、人類学のイメージ=遠い場所で起こった「私」と関係ない文脈が続く感じがみごとに払しょくされているように思われた。 まさに『自分にとっ...

人類学者でありフィールド哲学を提唱した菅原和孝氏とその門下生らによる対談・論文集。 哲学的要素に裏打ちされた記述や個人的な告白があることによって、人類学のイメージ=遠い場所で起こった「私」と関係ない文脈が続く感じがみごとに払しょくされているように思われた。 まさに『自分にとって当たり前だと思って意識していなかった初期設定に気づかされる』ことの意味合いが増す現在において、『ここでも人類学ができる』ことを示してくれる本。

Posted by ブクログ

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